一人息子である弟子の惠生(えせい)が、さる4月22日、修行にいっていた静岡県三島市の龍澤寺専門道場より、大学卒業以来2年を経て帰山いたしました。本来ならば大事了畢するまで道場にとどまるのが、臨済禅の修行ではありますが、卑山のように住職が二足鞋で護持をしていかなければなりゆかないお寺の場合は、そうも言っておられず、また道場自体が人少で苦労されている中を申し訳なくも思いながらのことでした。
龍澤寺は、かの白隠禅師を勧請開山とし、生まれ故郷が興福寺の隣町・五個荘の東嶺禅師が創建開山され、また、太平洋戦争終戦時の玉音放送の素案を作られたという山本玄峰老師が住職をされていた道場です。
そこで惠生は、現在90歳にして未だ矍鑠とした松華室・後藤榮山老師にご指導いただきました。同夏(どうげ)とよばれる同じ年に入った二人の仲間と共に、同じ釜の飯を食べてきたのです。坐禅あり、作務あり、托鉢あり。じつは現住職の惠学も同じくこの龍澤僧堂で修行したのでした。
帰山にあたり、三島から行脚姿で歩いて戻りたいという惠生には、少々おどろきました。実際、道場に向かうときや、道場から帰山するときに遠路を歩いてという雲水の話を身近でも聞いたことはあるのですが、私自身はそんなことをしませんでしたし、ましてや息子がそれをしたいというとは思いませんでした。
が、じつに9日間をかけて、三島から静岡を横切り、愛知県をこえ、関ヶ原を越えて歩いて帰ってきました。途中はすべて野宿だったそうですが、天気回りが悪く雨の日も多かったので、待ち受ける方も気が気ではありませんでした。
ちょうど新型コロナウイルスの感染者が名古屋あたりで増えていた4月中頃ですから、それも心配ではありましたが、事後報告によると、お布施をくださる方や、マスクを下さる方までおられてありがたかったとのことです。
家族はもとより檀家さんや有志の方が到着を待って出迎えて下さいました。本人も感無量のようでした。
彼の生涯にとってもいい思い出となったことでしょう。
これからの将来、この寺を護っていくのにかかせない住職となっていく惠生を、どうか暖かい目で見守っていただき、ご支援ご協力を頂ければ幸いです。