fbpx

由緒・沿革

醫王山興福寺は、臨済宗妙心寺派の寺院です。本尊は秘仏・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)です。

興福寺の歴史

 当寺はもと天台宗比叡山の末寺として、おそらく平安の昔、開創せられたもののようで、今も本尊は「東方薬師瑠璃光如来」及び日光菩薩、月光菩薩のいわゆる薬師三尊であり、したがって本堂も東から西に向いて建てられています(通常、禅寺の伽藍は北を背にし、南を向いて配置されるのが基本です)。
 大正12年(1923)9月12日、第十世の南明(なんめい)和尚が神崎郡役所の教育会長宛に提出した興福寺の調査届書に、次のような「梵鐘金石文」(原漢文)が書き写されています。

 この寺は開闢(かいびゃく)以来どれほどの星霜を経たか分からない。また一時廃基された経緯についても分からないが、本尊一躯が上林玄長居士の宅畔にあったのを、承応年中(1652~1655)に瓦屋寺の香山祖桂(こうざんそけい)和尚が再建された。その後珍州(ちんじゅう)和尚が一宇の方丈を建て、宝永三年(1706)三月にこの梵鐘ができた。

 また別に、明和3年(1766)菊月(9月)に当山第四世の湛源(たんげん)和尚が書いた、次のような古文書が残っています。

 当寺(興福寺)の濫觴(らんしょう)を原(たずぬ)れば、往古の昔この地に僅か一叢の歯跡(しせき:仏の歯を祀るところ、仏寺のこと)あり。山号を東光山と号し、医王寺と言う。隣は街頭と雖(いえど)も、紅塵を阻断し、松風相い接し、神風来たって助く。便ち聖徳太子自刻の薬師如来一仏を安んずるのみ。ゆえに郷里の衆民、各々帰仰し氏(うじ)の仏と為す。時は、延宝の年の中頃、我が祖中興珍州和尚に寄与す。爾来(じらい)歴既に一百霜に垂(なん)なんとす。
 寺は貧窮を極め、お堂も頽廃せり。自分(湛源)はこれを見るに忍びず、素願を起こし、貴賎や緇白(しはく:在家と僧侶)の区別なく、浄財を集めて再興を志せり。諸人良く協力し、千里の道を遠しとせず浄財を集め、砕骨万慮す。その努力言い尽くすべからず。
 かくて時節到来し、忽爾(こつじ)として竟(つい)に一宇の堂再建さる。いま本尊薬師如来の尊容を荘厳するに当たり、拙偈二絶句を賦(つく)って、再造の成功を賀す。

   一宇成就の賀辞
  風を摩(な)で雨を洗うて甚だ荒涼、
  新たに棟梁を架(か)くる一仏場。
  佗日何ぞ要せん、多子を領するを、
  禅談の特地、僧房と作(な)る。

謹んで薬師如来の慈容を厳飾し、点眼遷仏の供養に陳(の)べ奉る。

  言うこと莫(なか)れ 遥かに去ること河沙数(ごうがしゃ)と、
  点じ出す、機前殊特の相。
  一礼(らい)すれば縁に応じ、棄つべきは無し、
  悉(ことごと)く毛病をして、医王と説かしめん。

 これによると現在の興福寺の「堂宇伽藍」は湛源和尚によって再建され、そこへ聖徳太子自刻の本尊薬師仏を迎えて入仏開眼されたものだ、ということが知られます。時に明和3年(1766)9月のことですから、今を去ること250年前ということになります。

 また、毎朝打ち鳴らしている本堂の大磬(鐘)には、

寛政四年(1792)壬子二月吉日 京上住森嶋播磨大掾義只作 近江州神崎郡今村醫王山興福禅寺公用 為大機元用信士菩提 越道代

と刻み込まれてあり、約230年前から伝承していることがわかります。

歴代住職

勧請開山 敕謚仏海湛円禅師

 香山祖桂和尚。貞享3〈1686〉年閏3月8日寂、世寿72。松島瑞巌寺雲居希膺国師の弟子。

創建開山 珍洲祖鼎和尚

 天和2〈1682〉年1月24日寂、世寿53。香山祖桂和尚の弟子。

第二世 湖南希鑑和尚

 前住徳昌。元禄12〈1699〉年4月15日寂、世寿64。

第三世 梅隱東歴和尚

 宝永3〈1706〉年6月18日寂、世寿57。香山祖桂和尚の弟子。梵鐘鋳造。

第四世 丹靈紹律和尚

 享保11〈1726〉年1月5日寂、世寿46。鐘楼再建。

第五世 湛源惠盤和尚

 明和4〈1767〉年4月5日寂、世寿67。本堂再建。在住40年。

第六世 大機楚圓和尚

 天明4〈1784〉年10月14日寂、世寿30。湛源惠盤の弟子。在住2年。

第七世 越道玄格和尚

 文政3〈1820〉年8月24日寂、世寿69。黒津正法寺(大津市)曹源和尚の弟子。在住32年。

第八世 褒林玄實和尚

 天保10〈1839〉年3月15日寂、世寿49。越道玄格和尚の弟子。庫裏、表門、鎮守堂、地蔵堂建築。

第九世 淵洲宗兢和尚

 明治30〈1897〉年8月28日寂、世寿69。雲州蔵雲寺(島根県)大観和尚の弟子。在住17年。晩年、北出地蔵堂(興福寺の飛び地境内)に隠棲した。

  臨宗玄照和尚(~明治26〈1893〉年4月16日寂)
   淵洲宗兢和尚の弟子。在住4年。事情により歴代から除籍

諦邦祖觀和尚(~大正4〈1915〉年9月14日寂 世寿63)
 瓦屋寺(東近江市)敬道和尚の弟子。在住38年。本堂屋根替え。
 事情により歴代から除籍

第十世 南明宗壽和尚

 明治24〈1891〉年 8月29日~昭和〈1967〉42年9月3日寂、世寿77。
 徳昌寺(東近江市)の可嶽估印和尚の弟子。鐘楼再建、裏門再建、戦後に梵鐘再鋳造、玄関増築。

第十一世 徹定惠信和尚

 昭和8〈1933〉年7月30日生まれ。3歳にして南明宗壽和尚の弟子となる。書院、本堂・庫裏屋根替え、庫裏増築、鎮守堂・乳地蔵堂・北出地蔵堂・裏門再建など。花園大学教授を経て花園大学学長、禅文化研究所所長など歴任。

第十二世 守拙惠学和尚

 現住職。昭和37〈1962〉年5月16日生まれ。徹定惠信和尚の弟子。禅文化研究所主幹。庫裏増築、境内墓地改修、樹木葬墓地開始。